高原 直泰(たかはら なおひろ、1979年6月4日-)は静岡県三島市出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。アイントラハト・フランクフルト所属(背番号 19 )。
清水東高校出身。既婚(2005年12月に日本人女性と結婚)。
身長 181cm
体重 77kg
血液型 B型
プレイスタイル
オフザボールの動きに優れた、万能型のフォワード。ヘディングと90度反転してのシュートが得意。ウィング的に起用されたこともある。
運動量も多く、ハンブルガーSVで2004-2005シーズンに活躍を見せたのも、突出したオフザボールの動きに加え、その惜しみない運動量がチーム戦術にマッチしていた側面がある。
ジュビロ磐田時代はベテラン中山雅史とコンビでプレーし、Jリーグで圧倒的な攻撃力を見せていた。
プロフィール
各年代で日本代表に選出され、1994年にはU-16代表としてアジア選手権優勝。
1998年にジュビロ磐田入団。同年の開幕戦(1998年3月21日、京都パープルサンガ戦)で途中出場してゴールを決める華々しいデビューを飾る。1999年ワールドユースでは準優勝。シドニーオリンピックではベスト8進出。A代表では2000年アジアカップ優勝。同大会ではウズベキスタン戦でハットトリックなど大活躍、ベストイレブンに選ばれる。A代表初ゴールはこのアジアカップ予選のブルネイ戦でのことである。
2001年8月にアルゼンチンの名門・ボカ・ジュニアーズのオファーを受けて移籍、6試合1得点の成績だったが、アルゼンチンの経済情勢が悪化したことが原因で、翌年ジュビロ磐田に復帰。
2002年日韓ワールドカップは選出確実と見られていたが、直前にエコノミークラス症候群を発症。惜しくも本大会出場はならなかった(後のアテネ五輪のオーバーエイジ枠も同様の理由で辞退する)。しかしそれをばねに得点を量産、JリーグアウォーズでMVP、得点王(26得点、史上最年少)の二冠をわずか23歳で獲得。エコノミークラス症候群を避けドイツW杯をいい状態で迎えることができるようにドイツのクラブを探していたところ、ハンブルガーSVのオファーを受けて完全移籍でドイツへ渡る。
2003年2月9日の対バイエルン・ミュンヘン戦で、ブンデスリーガ(ドイツリーグ)での初得点をあげる。このゴールはオリバー・カーンの連続無失点記録を止めるものとなり、強烈なデビューを飾った。しかしハンブルガーSVではなかなかレギュラーをとれず、特に2003-2004シーズン途中から指揮をとったクラウス・トップメラーの元ではベンチ入りもままならなくなり、試合勘を保つため、2004-2005シーズンは下部組織のアマチュアチームの試合にも出場した。しかしそのアマチュアチームで指揮を執っていたトーマス・ドルが成績不振からトップメラーに代わって監督に就任すると、彼の要求するスタイルにマッチしていたことからほぼレギュラーとして使われるようになり、7得点(FW中最多)を挙げる。
しかし翌2005-2006年シーズン前半は同じドルの指揮下でも出場機会に恵まれず、高原はワールドカップ出場も見据えて冬の中断期間中に移籍を志願した。同じドイツのアイントラハト・フランクフルトが最有力かと報じられたが、怪我人でフォワードが足りなくなったハンブルガーSVのチーム事情もあり、ドル監督がリーグ戦後半は出場機会を増やすとし、残留することとなったが、その後もなかなか結果を出せず、リーグ戦で21試合(先発では6試合)で1得点。結局シーズン終了直後の2006年5月、あきらめずにオファーを続けたフランクフルトへ3年契約で移籍した。
同年6月、2006年ドイツワールドカップでワールドカップ初出場。初戦のオーストラリア戦では、リードして迎えた後半に数多くのカウンターのチャンスを全く活かすことができなかった。結果的に最終戦となったブラジル戦では、途中交代で後半から出場したが、数分プレーしただけで負傷交代した。
ワールドカップの負傷からフランクフルトでは出遅れたものの、次第に主力として存在感を発揮し始め、2006年12月3日、アレマニア・アーヘン戦で3得点をマークしブンデスリーガにおける日本人初のハットトリックを達成するなど、1ヶ月で6得点の活躍を見せる。2007年1月27日、高原はホームでのシャルケ戦でリーグ戦の7得点目を決め、シーズン公式戦通算ゴール数を11に伸ばし、中田英寿が1998-99年シーズンにペルージャでマークした1シーズンの日本人海外最多得点記録(10得点)を更新。更に3月9日、フル出場したアウェーのニュルンベルク戦で、後半24分に公式戦4試合連続ゴールなる10点目を決めてリーグ戦のみでの得点数も中田に並ぶと、5月5日のホームのアーヘン戦で後半12分にゴールを決め、自己記録更新中の同リーグシーズン通算得点を11として、リーグ戦のみでの得点数も中田を抜き、1シーズン日本人海外最多得点記録は17得点に伸ばした。これらの活躍でフランクフルトの1部残留に貢献する。
2006年7月オシムジャパン発足後、海外組が初めて招集された2007年3月24日のキリンチャレンジカップ、ペルー戦で、セルティックの中村俊輔と共に日本代表に復帰した。そのペルー戦では、中村俊輔からのフリーキックをゴールマウスを背にした状態からワントラップで反転してシュートする高度なテクニックを披露し、オシムジャパン初参加にして見事に得点を挙げ、その実力を示した( 試合は日本が2-0で勝利 )。試合後の会見で、高原について聞かれたオシム監督は「ドイツで結果を出しているのが偶然ではないことを証明した」と語っている。
2007年7月9日のAFCアジアカップグループリーグ初戦のカタール戦にて、今野からのセンタリングをゴールから引きながらの技ありボレーを決める。試合は後半終了間際に、DF阿部のファールから痛恨の同点FKを決められ1-1で引き分けた。予選突破のため必勝で臨んだ同月13日、グループリーグ第2戦のUAE戦では、前半21分、中村俊輔のゴールラインギリギリからのセンタリングにダイビングヘッドで合わせ、先制点を決める。その5分後の前半26分、加地からのクロスをトラップから流れるようにゴール左隅にシュートを決め、合計2得点をあげた。試合は中村俊輔のPKでの得点を含め3-1で見事勝利し、高原はエースとしての存在感を充分に示した。決勝トーナメント一回戦、オーストラリア戦では、先制された直後の後半26分に相手のクリアミスを拾うと完璧なシュートフェイクから見事に同点ゴールを決め、合計4得点で日本人初のアジアカップ得点王となった。現在日本代表で最も頼りになるストライカーであることは間違いない。
書籍
2002年 高原直泰物語 (小学館、佐藤俊、ISBN 978-4091497512)
2003年 GOAL GATE 高原直泰 1979‐2003 (小学館、佐藤俊、ISBN 978-4093553322)
2006年 高原直泰 原点 (アールズ出版; 増補改訂版、高部務、ISBN 978-4862040114)
ーウィキペディア(Wikipedia)ー





